昨日あたりから巨大掲示板群「にちゃんねる」で話題になっている、とある課業管理方式。
なんでも、事務職でも、座ったり立ったりするのは「時間の無駄」だから、いすをなくしましょう。そして、机に「げた」履かせて立ったまま机での作業をできるようにしましょう。
早く歩けば仕事がてきぱきできるので、5mを3.6秒で歩かないと警報がなるシステムを導入しましょう。
また、
資料や書類を探す無駄な時間を削減するために、部門やグループで共通に使用する資料は,個人で保管するのではなく,すべて共用の棚に保管しているのだという。
ここでのスローガンは「急ごう、さもないと 会社も地球も滅びてしまう」だそうである。
最初この課業管理方式は、「肯定的に」ネットニュースに紹介された。
しかしながら、ネットの住人たちはすぐにこれはおかしいと考えて猛反発。
この会社と現在の日本の刑務所の作業風景を比較した写真も出てきた。
・・・刑務所のほうがずっと環境がよい。
それどころか、アウシュビッツ収容所(悪名高きナチのユダヤ人弾圧に使われた強制収容所)とほぼ同等という写真も出てきている。
ちなみにアウシュビッツ収容所のスローガンはドイツ語で「働けば自由になれる」であった。
自分はそういうところとは関係ない。という人も言葉を発し始めた。
曰く「ニーメラー牧師の教えを守る」と。
この牧師はこういっている。(「牧師」なのでプロテスタントである)
ナチ党が共産主義を攻撃したとき、私は自分が多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった。
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。私は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった。
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。私はずっと不安だったが、まだ何もしなかった。
(ついでナチ党はカトリックを攻撃した。自分はプロテスタントだったので何もしなかった・・・というバージョンもある)
ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた。
この会社を所轄する労働局・労働基準監督署などに電凸(「でんとつ」と読む。問題のある組織や、その組織を所轄する官公署などに電話で質問をぶつける(だから「とつ(=突)」という))する人も現れた。
実は私はこのニュースを読んで、過去の状況がフラッシュバックしてよく眠れなくなってしまった。
私も過去にこれに近い状況におかれたことがある。記事の会社と同じ理由で机には下駄をはかせ、いすはあるものの、「机にあわせて」いすの高さを合わせるように改造がなされ、(私の身長だと完全に足が浮く)その机は、平均よりもだいぶ背が高い社長に合わされたので私の身長では非常に厳しかった。
書類共用も同じようなものであった。もっとも私のところの場合は、単に同じ書類を十分に用意できなかったのと、IT化されていなかったので、オンラインで見るような仕組みがなかった。
しかも、狭い中でみんながどたばたするので非常に仕事がやりづらかった。
同時に同じ書類を必要とする人がかち合ったときにトラブルにもなりやすかった。
そして、この会社のスローガンの一つは「構内は時速六キロで歩こう」であった。
ニュースになった会社の歩行速度を時速換算するとおよそ五キロである。
だったらそんなところ辞めればいいじゃないのと、私も言われたし、この会社に関して意見を書いている人の中にもいう人がいる。
これは経験してみると分かるが(しかし、そんなことは経験してほしくない)その会社の中が社会のすべてのような錯覚にとらわれて思考が停止しがちである。
また、こんな書き込みもあった。
奴隷は奴隷の境遇に慣れ過ぎると、驚いた事に
自分の足を繋いでいる鎖の自慢をお互いに始める。
どっちの鎖が光ってて重そうで高価か、などと。
そして鎖に繋がれていない自由人を嘲笑さえする。
だが奴隷達を繋いでいるのは実は同じたった1本の鎖に過ぎない。
そして奴隷はどこまでも奴隷に過ぎない。
過去の奴隷は、自由人が力によって征服され、
やむなく奴隷に身を落とした。
彼らは、一部の甘やかされた特権者を除けば、
奴隷になっても決してその精神の自由までをも譲り渡すことはなかった。
その血族の誇り、父祖の文明の偉大さを忘れず、隙あらば逃亡し、
あるいは反乱を起こして、労働に鍛え抜かれた肉体によって、
肥え太った主人を血祭りにあげた。
現代の奴隷は、自ら進んで奴隷の衣服を着、首に屈辱のヒモを巻き付ける。
そして、何より驚くべきことに、現代の奴隷は、
自らが奴隷であることに気付いてすらいない。
それどころか彼らは、奴隷であることの中に自らの唯一の誇りを見い出しさえしている。
(リロイ・ジョーンズ 1968年、NYハーレムにて)
私の場合、「鎖自慢」をする気はさらさらなかった。
この思考停止状態を家に帰ってからの資格などの勉強で打ち破った。
目標を持って勉強することで思考停止状態を避けることができる。
資格の勉強を通じて、より広い世界を見ることができる。
なので、ここでの資格は自分が興味を持てるものであればなんでもよい。
(なお、この手法は自ら編み出したものである)
私がこの「脱出作戦」を実行準備していたとき、ネットでの交流があった人がいて、私をこう評した。「まるで映画「大脱走」みたいだ。勇敢だ」と。
またこんな書き込みもあった。
ひとりのスパルタ人の少年の話が歴史に残っている。
彼は戦争で捕虜になった。そのとき彼はドーリア方言で叫んだ。
「俺は奴隷ではない!」と。
そしてその言葉が真実であったことを、自らの死をもって証明したのだ。
彼は最初の労役の命令を受けた。便所用のつぼの運搬という雑役だった。
彼は壁に向かって全速力で走り頭を激突させたのであった。
この少年のような勇気を拒否するならば、人は君を奴隷のように扱い続けるだろう。
そして扱われるままになっている限り、君は少年のように勇気をもって叫ぶことが出来ないだろう。
「俺は奴隷ではない!」と。
人々の奴隷、物の奴隷、人生の奴隷であることは、なんと不幸なことだろう。
もし死ぬ勇気を持つことができなかったら、人生はいつまでたっても奴隷状態である。
セネカ(紀元前1年頃-65)「ルキリウスへの手紙」第77通より
・・・この2000年以上前の彼の取った行動には賛否両論あるだろうと思う。
すくなくとも私はそのことは否定しない。
私には彼がとった以外の選択肢があった。だから、なんだかんだで今の仕事をしている。ただそれだけである。
こちらの文章は今回の件ではじめて読んだ。ネット仲間がかつて私を「勇敢だ」と評した意味が少し分かった気がする。
蛇足かもしれないが私からもスローガンを。
「急ごう、さもないと 自分の人生も本来生まれてくるはずだった子孫も滅びてしまう」
さらに蛇足。
いま、大変暑い。なので、事務所の窓は全開である。
事務所から数百メートルのところに小学校があるので、児童が大きな声を出すとよくそれが聞こえる。
昨日書いた社労士資格(取れればだが)はこの子たちの未来を守るためにも使わなければならないと改めて強く感じた。
これは社労士資格でもって地元の企業とかかわりを持ち、健全な経営方法を示すことにより(たとえば、サービス残業を強要するのではなく、こうやれば助成金が出やすくなるなどの助言をし、それで、経営者も労働者も幸せになれるようにする。また、今回取り上げたような「課業管理」方法を反面教師として示す)できるだけ多くの人が地元で幸せに生きられるようにする。このことは少子化問題、過疎化問題などの問題を少しでも解決できるはずである。
ちなみに行政書士資格も、「せっかくの有給つぶして役所に行くよりも、私に面倒なこと任せて楽しんできてほしい」というスタンスでいる。確かに、行政書士になにかしらの手続きを頼めば報酬を払わなければならないが、本来労働者の当然の権利である年次有給休暇が取りにくい状況下では、その休暇にはお金に替えられない価値があると思う。
大塚行政書士事務所 http://gyousei.ohtsuka-office.jp/index.html
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