新春講演会と賀詞交歓会(長文注意)
会場へは車で行き(酒が出るのだが、私は飲めないので問題ない。行政書士になってから無茶な飲酒の勧めは受けたことが無い)会が始まるまで、知り合いの行政書士の先生と話したりしていた。
ところで、賀詞交歓会というのがいまいち分からない。で、何をするのか聞いてみたところ…
「酒飲むんだ」
とのことであった。
じゃぁ、私の場合は、食事と賀詞交歓(がしこうかん)ならぬ名刺交換(めいしこうかん)会だなと解釈した。
講演会は、行政書士がこれから入っていこうとする成年後見制度関係でどうしても出てくる「高齢者福祉」の問題を専門とする方が講師であった。
成年後見のきっかけの多くは認知症で判断能力が十分でなくなり、法的な代理人をつけましょう…という感じで始まる。
認知症になる多くの人は高齢者で、たいてい加齢でどこかしらに病気や障害を持っている。
ゆえにそうした方たちの介護はしない(できない)が理解が絶対に必要であると思う。
講師の先生は、もともと「暗い」イメージが付きまとう介護について、それを払拭しようと活躍し続けている方であった。
現状の日本の福祉にはもちろんリハビリテーションの概念があるが、それは肉体面においてのみである。
この概念は、「本人の残存能力を生かしてQOL(生活の質)を維持しよう」という考え方である。
社会保険労務士の勉強でも同じことを学ぶ。
成年後見の講習では財産管理、身上監護(介護ではない)は「本人の残存能力があるならそれを尊重し…」とある。
これらいずれにも欠けているのが、高齢者の精神面のケアである。
講師の先生があげていたケースは、高齢者施設の「歌の時間」で歌わない女性の高齢者がいる。
私だったら、声を出すのが苦痛なのか、歌が下手で歌いたくないとかの理由があるのかな?と考えてしまうと思う。
講師の先生はこの女性に声をかけて、「どんな曲なら歌ってみたいのか」を聞き出す。
その曲(シャンソン曲)をピアノで弾いてみたところ、まるで別人のようにシャンソンをそれもフランス語で歌い上げたという。
私はこの女性の気持ちが少し分かるような気がする。なぜならある意味同じような経験を何度かしてきたから。
高齢者施設側からしてみれば、「高齢者にはこれくらいがいいだろう」と音楽のレベルを合わせる。個々の能力にかまっているほど暇ではないのだろう。
何らかの能力を持ちながら、それを生かされず「お前はこれでもやってろ」というそういう扱い。
これは精神的にひどくやられるものである。それならまだ、私が目指しているものよりもさらにハイレベルなことをあっさりと目の前でやられたほうがはるかにマシである。
パソコンが使えるにもかかわらず、それを使わせてもらえず、下手な字の手書きで領収書(つまり顧客が見る)を書くことを命じられ、となりでパソコン苦手な人間がパソコンを使っている…。この是正を求めて声を上げることがムダなのも経験上しっている…。などきりが無い。ほかにもたくさんあるが、説明に専門用語が必要だったり、書き始めると話が大幅に脱線する。
精神面でやられてしまうと、それは徐々に肉体面もやられてしまう。その逆もまた然りである。これも経験済みである。
年を重ねるということは、だんだん衰えこそすれ、よくなっていくことがまず無い。そして、最後にたどり着く場所は同じである。
ここが幼児教育との根本的な違いだと思う。幼児教育の場合、成長とともにいろいろなことができるようになっていく。これは、それに携わる人にとって大きな喜びであることは想像に難しくない。
しかし高齢者介護はまったくその逆である。なので、それに携わる人も精神的に負担がかかる。すると前述したように肉体的な負担もかかる。あとは負のスパイラルに陥り、離職者が増えていき経験者が少なくなって介護業界も…ということになる。
これは講師の先生もおっしゃったことであるが、そうなると今高校生で新たに介護業界に進みたいと思っている子だって周りに「それだけはやめとけ」ととめられたり、たとえ進んでも、実際に業界に入ったら持たなかったりという現象が起きる。
だから講師の先生は「介護のイメージから変えていく動きをしなければならない」と主張する。
いいイメージがあればいい人材が入ってくる可能性が高い。また、いい人材が定着する可能性も高い。
そうすれば介護の業界にもっといいイメージを持つ人が増えるであろう。
また、講師の先生は高齢者介護自体「教育的効果」があるという。
この一つの例が、高校をろくに出席せずに退学になった(元)女子高生2人の例である。
この二人はある高齢者施設でボランティアとしてほぼ1年無遅刻無欠勤で通したという。
一般の人間の見方をすれば、この二人は「落伍者」とみなされ、ネットではDQN(「ドキュン」と読む。意味は検索していただきたい)と呼ばれる存在である。
何のボランティアかといえば、「高齢者にマニキュアを塗る」という驚くべきものであった。が、この2人は1週間かけてそれを遣り通した。ところが、マニキュアは時間が立つと落ちるのでまた塗らなければならない。
つまり、この2人の仕事は半永久的に続くことになる。言い換えると、この2人は半永久的にこの場に必要な存在となる。人間というのは他人から本気で必要とされるとうれしいものである。(ただし、これが「あんた以外にもいくらでもできる人間はいるんだ」という態度が少しでも混じっているとそのうれしさが消えてしまう。)
行政書士として言わせてもらえば、あえて自分を選んで仕事を依頼してくれたというのはこれと同じくらいうれしいものである。
ところで、この女子高生の容姿は、一人は髪の毛を白に染め、もう一人は紫に染めていた。また、暗い色のマニキュアをつけており、さらにあちこちで座り込むようなことをしていた。
外見や振る舞いはどうみても典型的なDQNである。
が、ここからは面白くもあり、感動もした点である。
この女子高生を見た高齢者は、施設の長に苦情を入れた。「あんなふざけた格好のヤツを施設に入れるな」ではなく、
「若いのに白髪だらけになっている子がいる。若いのに相当な苦労をしてきたにちがいない。なぜ行政はこの状況を放置してきたのか!」とか「2人ともつめがひどい色だ、栄養状態が悪すぎるんじゃないか。こんな状況をほおっておいた行政はけしからん」とか「あの座り込みは戦後まもなくの廃墟状態の町中を思い出す。今でもそんなところがあるのか」…すべて勘違いなのだが、その勘違いがすべてその子たちを思いやっている方向に向いているのである。
そういえば私自身は、行政書士になる以前は会社の外で似たような(勘違いの場合もあったけれど)思いやりをもらったケースが多々あったと思う。
この女子高生2人は、一般の学校教育では与えられなかったものを高齢者施設から与えられたことになる。
一つは「他人から必要とされること」もう一つは「他人から尊重されること」である。
これが人間らしく生きるのにいかに重要かは私自身にもよく分かるつもりである。
講演って多くの場合、時間が長く感じるものなのだが(私は)、今回の講演はおよそ1時間があっという間であった。
この後は、名刺交換会…ではなく賀詞交歓会であった。来賓の方の祝辞と紹介があり、その後に乾杯があった。
私はもちろんウーロン茶である。
そのあとはやっぱり名刺交換会になったわけであるが…。この業界、33歳だと「若いね~」と言われる。
主に同じ行政書士の先生との名刺交換だったが、中には政治家(またはその秘書)の方との名刺交換もあった。
名刺交換をした人の中に、私の父親とその人の奥さんが同級生で、その人自身が父親の兄と同級生だったというケースもあった。こういうことがあると、本当に世の中狭いなと思う。
実は私はこうした場は割りと苦手なほうであると思っている。単に「堅苦しい」のであればまだいいのだが、いろいろな人とコミュニケーションとってというのは、私自身、人の顔と名前を忘れやすいというのがあってなかなか難しい。
かといって、相手の方に私はこういう事情があるので配慮して欲しいなどとは言えない。
この後、賀詞交歓会はお開きになったのだが、このあと二次会があるそうである。このことは事前に配られた案内には書いておらず、当日になってからある先生から聞いた。
こういうのにも積極的に参加するべきなのだろうが、上記の理由で精神的にかなり疲れていたので早々に家に帰ることにしたのであった。
大塚行政書士事務所 http://gyousei.ohtsuka-office.jp/index.html

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