「結果がすべて」とよくいうけれど
先日、サッカー・ワールドカップの決勝戦において、日本とパラグアイが対戦。
延長戦+PK戦の末に、日本は1点差で敗北した。
このPK戦の時に日本チームは1人だけ相手ゴールに入れ損ね、それが敗北の決定的な原因になった。
この1人に対する批判が強いという。
社会人になると「どんなにがんばっても結果がすべて。がんばったんだから…などというのは甘え。そんなのは学生時代に卒業しろ」などと言われる。
確かにそうだ。しかし私はこの言葉の全部を肯定することは出来ない。
私はサッカーに関してはほとんど何も分からない。日本チームの誰が強いとか、戦術とか作戦とかもさっぱり分からない。小学生のときに習った程度のルールしか知らない。
だけど、想像することは出来る。45分×2+15分×2(延長戦)の計120分を戦い、その上でのPK戦ですさまじいプレッシャーを感じながらのシュート…ものすごい精神力でなければ出来ないのは明らかである。
そんな中でこういう試合は必ず勝敗というものが決まる。これは大変非情なものである。
その結果負けた者を平気で追い討ちするような言葉をぶつける人間がまともだといえるのだろうか。
そのような人間が偉そうに「(前略)がんばったんだから…などというのは甘え」などの言葉を吐くことは許されるだろうか?
で、なんとなく予想していたのだが、あるマスコミは、その選手の母親のところに取材に行って息子がゴールできなかった件に付き「謝罪」の言を取ってきたという。ああいう集団は平気でそういうことをする。反吐が出る。
それと、「努力したんだから…などというのは甘え」と平気でいえてしまう人間って、本気で努力して事に当たったことがほとんどないのではないかと思うことがある。
もともとの能力が優れている人間は、例えばスポーツの基礎動作も対して苦労せずに覚えることが出来る。
一方私のようにまるでダメな人間もいる。
この場合、前者の適当と後者の全力では前者が勝ってしまう。「努力すれば…」とはいっても、勝つことはできないのである。
勉強についても同様である。東京大学に入ることが出来るような人間の中には「高校で配られたものしかやってないよ。塾?高校でやったことをどうしてもういちどやらなければいけないの?」とか「テスト勉強?普段の授業だけで十分出来るからわざわざテスト前に特別にやる必要はない」といって、実際に成果を上げることが出来たりする。このケースも全力を出しているとはいえない。
一方、私は全力を出し切らないといい成績をとることは不可能である。無論、それでも前者の人間の「普段の授業での理解度」に追いつくことが出来ない。
たいして苦労しなくてすんでいる人は成果を出せなかった人に対して平気で「甘え」というのだろう。
だからこそ私はむやみに「結果がすべて」という言葉は使わない。使った場合は何らかのフォローはする。
その結果を出せなかった人間の悲しさ、悔しさを「優秀な人」よりは知っているつもりであるからである。
今回、サッカーはいいところまでいったのだから、その悲しさ、悔しさをばねにしてほかの試合にもがんばって欲しいと思う。サッカーファンじゃない私ですら本気でそう思う。

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延長戦+PK戦の末に、日本は1点差で敗北した。
このPK戦の時に日本チームは1人だけ相手ゴールに入れ損ね、それが敗北の決定的な原因になった。
この1人に対する批判が強いという。
社会人になると「どんなにがんばっても結果がすべて。がんばったんだから…などというのは甘え。そんなのは学生時代に卒業しろ」などと言われる。
確かにそうだ。しかし私はこの言葉の全部を肯定することは出来ない。
私はサッカーに関してはほとんど何も分からない。日本チームの誰が強いとか、戦術とか作戦とかもさっぱり分からない。小学生のときに習った程度のルールしか知らない。
だけど、想像することは出来る。45分×2+15分×2(延長戦)の計120分を戦い、その上でのPK戦ですさまじいプレッシャーを感じながらのシュート…ものすごい精神力でなければ出来ないのは明らかである。
そんな中でこういう試合は必ず勝敗というものが決まる。これは大変非情なものである。
その結果負けた者を平気で追い討ちするような言葉をぶつける人間がまともだといえるのだろうか。
そのような人間が偉そうに「(前略)がんばったんだから…などというのは甘え」などの言葉を吐くことは許されるだろうか?
で、なんとなく予想していたのだが、あるマスコミは、その選手の母親のところに取材に行って息子がゴールできなかった件に付き「謝罪」の言を取ってきたという。ああいう集団は平気でそういうことをする。反吐が出る。
それと、「努力したんだから…などというのは甘え」と平気でいえてしまう人間って、本気で努力して事に当たったことがほとんどないのではないかと思うことがある。
もともとの能力が優れている人間は、例えばスポーツの基礎動作も対して苦労せずに覚えることが出来る。
一方私のようにまるでダメな人間もいる。
この場合、前者の適当と後者の全力では前者が勝ってしまう。「努力すれば…」とはいっても、勝つことはできないのである。
勉強についても同様である。東京大学に入ることが出来るような人間の中には「高校で配られたものしかやってないよ。塾?高校でやったことをどうしてもういちどやらなければいけないの?」とか「テスト勉強?普段の授業だけで十分出来るからわざわざテスト前に特別にやる必要はない」といって、実際に成果を上げることが出来たりする。このケースも全力を出しているとはいえない。
一方、私は全力を出し切らないといい成績をとることは不可能である。無論、それでも前者の人間の「普段の授業での理解度」に追いつくことが出来ない。
たいして苦労しなくてすんでいる人は成果を出せなかった人に対して平気で「甘え」というのだろう。
だからこそ私はむやみに「結果がすべて」という言葉は使わない。使った場合は何らかのフォローはする。
その結果を出せなかった人間の悲しさ、悔しさを「優秀な人」よりは知っているつもりであるからである。
今回、サッカーはいいところまでいったのだから、その悲しさ、悔しさをばねにしてほかの試合にもがんばって欲しいと思う。サッカーファンじゃない私ですら本気でそう思う。
大塚行政書士事務所 http://gyousei.ohtsuka-office.jp/index.html

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